日本におけるメダカの歴史を辿ると…
メダカ。
学名はOryzias latipes(オリジアス ラティペス)、和名だとニホンメダカ。メダカ属をしめすOryzias は、イネの学名 Oryza sativa に由来し、「イネのまわりにいる」という意味です。
小学校の頃、教室などで飼育していた記憶を皆さんお持ちではないでしょうか。日本で一番小さな、この愛くるしい淡水魚について、一度歴史を振り返ってみましょう。
メダカを漢字で書くと「目高」、なるほどよく観察すると、確かに目が顔の高い位置についていますね。これは、水面に流れてくるエサをウォッチするためのもの。同じく口も、おちょぼ口&受け口で、水面のエサを取り込みやすい形状となっています。ゆるやかな小川や用水路、止水域の浅瀬で暮らすための機能が、メダカには備わっているのですね。
メダカが日本の文献に登場するのは18世紀の江戸時代。この頃からメダカ鑑賞の習慣が始まったと言われています。江戸中期の浮世絵師、鈴木春信の錦絵「めだかすくい」(1767~68年頃)には、水面を網ですくっている二人の少女が描かれています。
古来、愛好家らの手によって、野生メダカやその突然変異種であるヒメダカ、白メダカ、ブチメダカなどが鑑賞魚として飼育されていたようです。しかし16世紀の室町中期に、中国から入った金魚(突然変異の赤いフナ)が養殖により庶民の間に広まるようになると、より派手な金魚のほうが鑑賞魚としての地位を奪うことに。
それ以降、メダカは観賞魚としてよりも、学問の分野で価値が認められました。1823年、ドイツの博物学者シーボルトが生物学的にニホンメダカを発見し、世界に初めて紹介したのです。これにより、メダカは生物学・遺伝子学などの分野で重宝されてきましたが、依然として観賞魚としてのニーズは無く、大型魚のエサとして丈夫なヒメダカだけが広く流通していきました。
さらに、20世紀初旬には熱帯魚も日本に入ってくるようになり、輸入量の増加や飼育機材の進化により、観賞魚としてのニーズをつかむことに。地味な存在であるメダカは、田んぼや小川、池などで身近に見られ、日本人にもっとも近い存在の魚でした。しかし、身近な存在であったがゆえに、宅地造成や農業改革など人間活動の影響を強く受けて生息数が激減し、1998年「絶滅危惧種第Ⅱ類」(絶滅の危険が増大している種)に指定されてしまいました。
ちょうどその頃、21世紀を迎えるあたりで再びメダカを飼育する人が増えてきました。ダルマメダカやヒカリ(ホタル)メダカなどが新種メダカとして登場したためです。ここからメダカの人気はじわじわと上がり始め、密かにメダカブームを迎えて現在に至るのです。
日本のメダカブームは今!
地味なメダカから進化したとは思えない変わりメダカの出現と、皮肉にも身近な存在のメダカが「絶滅危惧種第Ⅱ類」指定というショックで注目を集めたことにより、現在、長い歴史の中で一番のメダカブームが到来しているのです!
この流れを止めずに発展させてゆくには、一過性のブームに終わらせないこと。そのために、それを支えるメダカ愛好家の末端のひとりとして、微力ながら本サイトで情報発信を続けて、メダカ愛好家の輪を広げてゆければと思います。そして、錦鯉や金魚のように、海外の愛好家をも唸らせるようなクールジャパンのコンテンツとして、メダカ文化が育ってゆくことを望みます。
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